タイミングを決めるのは常に本人でなければならない

今日は大きな失敗をした。

 

 

最近常に思っているのは、どうやったら少しでも人の役に立てるのかということ。

 

 

 

けどここには危険性が潜んでいる。

 

 

 

 

人の役に立ちたいと思う時には純粋に相手を思う気持ちだけがあるべきなんだけど、その裏には役に立って認められたいみたいな承認欲求が首をもたげてくるのだ。

 

 

 

前者から出てくる行動は必ず相手に何かしらのプラスのエネルギーを伝える。

 

 

 

 

けど後者からでてくる行動はどんなにうまく隠したつもりでも、何かしらのマイナスエネルギーを相手に与える。

 

 

 

 

だから誰かのために行動する時には冷静に自分を見つめることが必要だと思うのだ。

 

 

 

 

では悲しみ・困難に直面している人と出会ったときに、どうしたらいいのだろうか。

 

 

 

 

たまたま自分がその乗り越え方を思いついたとして、それを伝えたい気持ちをどうするべきだろうか。

 

 

 

おれはついお節介心で向こうが望んでいるかも確かめずに声をかけたわけだ。なにか正義という名の美酒に酔いしれていたのかもしれない。

 

 

 

一夜あけて、巧妙に隠れていた承認欲求を見つけ出して大きく反省しているのだ。

 

 

 

 

 

 

人が課題を乗り越えようとしているときは、主導権を常にその人に置いておかなくてはいけないと思うんよ。

 

 

 

こちらができるのは万全のサポート体制があるよということだけ示して、あとはただ向こうがどうするのかを待つだけ。

 

 

 

これが「信頼」と「期待」の違いであり、「祈り」と「念力」の違いなのよね。

 

 

 

「タイミングを決めるのは常に本人でなくてはならない」

 

 

大きな教訓を学びましたな。

 

 

 

 

 

おわり